2012年01月04日
鳳来の岩場 History
事務局です。
鳳来の岩場の歴史です。
2000年6月15日 鳳来のあるエリアで【立入禁止】の看板が立った。
【鳳来のアクセス問題】がはじまった。
鳳来の岩場の歴史です。
2000年6月15日 鳳来のあるエリアで【立入禁止】の看板が立った。
【鳳来のアクセス問題】がはじまった。
1986年 初春
岐阜瑞浪、豊田大滝渓谷周辺の開拓の次に鈴木俊六、宗宮誠佑、羽淵全己、山本宰甲らによる鳳来湖周辺の岩場の開拓がはじまる。
(リングボルトによるエイドルートは以前より数本ありましたが、フリークライミングとしての開拓)
1987年 春
渡欧する前の若き日の平山裕示もNHK取材班とともに鳳来を訪れ、鳳来初の5.12ルート【豆腐】(現在は観光地のためハンガーが外されています)を初登。
1988年 寺島氏(Tウォール社長)により鳳来初の5・13ルートが2本登られる。(共に未発表エリア)
その後、大岩純一あき子夫婦やJAOのメンバー。岡田秀一や故森脇聖司ら関西勢なども加わり鳳来の初期開拓が行われていきました。
1994年
岩と雪165号に鳳来の岩場の特集が組まれる。
当時はまだクライミングジムはほとんどない時代。
5・12~13のルートは限られた上級者にしか登れない時代。
クライマーは増えましたが、爆発的にという感じではありませんでした。
その後、徐々にクライマーは増加する。
1999年
ロック&スノーに鳳来の中級者(5・10代)のエリア【軍艦岩】が開拓者への十分な説明もなく発表される。
ジムが増え、全体的にレベルが上がったクライミング界。
この発表を機に一気にクライマーが増える。
駐車場には車があふれ、林道にも路肩に駐車され森林組合のトラックが作業に入れないという問題が発生する。
鬼岩周辺の間伐作業に入った森林組合の方々から「糞だらけ」という苦情が出る。
林道やJR駅駐車場に勝手にテントを張るものも出て地元住民の不満はたまる。
鬼岩がはアプローチが1時間とかかるため荷物の岩場の残置が大量に行われる。
当たり前のように岩にヌンチャク(クイックドロー)が残置される。
そして
2000年6月15日
キャンプ場の水源確保の名目のもと【立入禁止】の看板が立つ。
鳳来の借家(クライマー20数名で借りた家)のメンバーが地元地域、森林組合、行政(当時は鳳来町)に話を聞きに行く。
「岩場の荷物や岩にかけてあるヤツ(クイックドロー)は俺らにしたら不法投棄のゴミと同じだ。」と言われる。
地元の方々の話を聞き、全面禁止の危険を感じる。
清掃活動をはじめ、岩場にあった残置荷物を降ろす。
岩に残されたヌンチャクも回収した。
勝手に回収されたクライマーから苦情が多数あった。
「誰が勝手に岩に穴をあけてあんなもの(ハンガー)を付けて良いって言った。」と言われた。
外すわけにはいかないので岩と同じ色で着色した。
「ハンガーが見難い」と苦情があったが、登れる環境を維持することが優先とその作業を継続した。
事故が起こってはいけないとリボルトの作業や終了点の整備作業をした。
「鳳来の問題は鳳来で登りたい上級者の人たちがやっているだけ。」という声が聞こえた。
近くの中級者のエリアである石巻山(現在登攀禁止)の整備を日本フリークライミング協会の協力を得て実施した。
どうすれば鳳来の岩場を継続的に利用できるのか?
どうすれば禁止となったエリアを登れるようにできるのか?
アクセス問題の初期に活動した皆は半年以上にわたり、
休みの大半を登らずに岩場整備や地元へのあいさつ、清掃活動に費やした。
清掃活動を地元地域との共催とし、鳳来町後援の冠を付け少しずつ活動を進歩させていきましたが、
仕事や家庭の都合、モチベーションの低下により活動は徐々に停滞していった。
(モチベーションの低下については一部の強権的な者の身勝手によるものが大きかったと私個人は思っている)
「クライマーの増加はエリア全体の禁止を招きかねない」と判断した鳳来ローカルたちは新しいエリアやルートを作っても発表を控えるようになった。
数年後、そんなローカルの配慮を軽視して記録の発表をする者が現れ、ローカルとの対立があった。
それから「鳳来は閉鎖的だ」とローカル以外のクライマーから言われるようになった。
どうすれば地元の方々がもっとクライミングを理解してくれるのか。
どうすれば禁止になったエリアを解放できるのか。
どうすれば新しいエリアやルートを堂々と発表できるようになるのか。
人が増えることが問題になるのではなく、地域活性化の材料になるハズだ。
それにはどうすればいいのか。
その後、地元小学校の岩登り体験会を地元経済界の応援を得て3年間にわたり実施した。
新聞やケーブルテレビにも掲載していただいた。
地元のスポーツイベントでクライミングの体験会を開催した。その1 その2 その3
認知度は少しは上がったと思う。
しかし、【鳳来の岩場】を登る地元住人は現れなかった。
地元住民が【鳳来の岩場】を活用するようにならなければ・・・。
そして
2011年10月 NPO法人新城DOSクライミングクラブ 設立総会開催
2012年2月 ボルダ109 オープン予定。
2000年6月15日 立入禁止の看板が建った日から12年が経っていた。
岐阜瑞浪、豊田大滝渓谷周辺の開拓の次に鈴木俊六、宗宮誠佑、羽淵全己、山本宰甲らによる鳳来湖周辺の岩場の開拓がはじまる。
(リングボルトによるエイドルートは以前より数本ありましたが、フリークライミングとしての開拓)
1987年 春
渡欧する前の若き日の平山裕示もNHK取材班とともに鳳来を訪れ、鳳来初の5.12ルート【豆腐】(現在は観光地のためハンガーが外されています)を初登。
1988年 寺島氏(Tウォール社長)により鳳来初の5・13ルートが2本登られる。(共に未発表エリア)
その後、大岩純一あき子夫婦やJAOのメンバー。岡田秀一や故森脇聖司ら関西勢なども加わり鳳来の初期開拓が行われていきました。
1994年
岩と雪165号に鳳来の岩場の特集が組まれる。
当時はまだクライミングジムはほとんどない時代。
5・12~13のルートは限られた上級者にしか登れない時代。
クライマーは増えましたが、爆発的にという感じではありませんでした。
その後、徐々にクライマーは増加する。
1999年
ロック&スノーに鳳来の中級者(5・10代)のエリア【軍艦岩】が開拓者への十分な説明もなく発表される。
ジムが増え、全体的にレベルが上がったクライミング界。
この発表を機に一気にクライマーが増える。
駐車場には車があふれ、林道にも路肩に駐車され森林組合のトラックが作業に入れないという問題が発生する。
鬼岩周辺の間伐作業に入った森林組合の方々から「糞だらけ」という苦情が出る。
林道やJR駅駐車場に勝手にテントを張るものも出て地元住民の不満はたまる。
鬼岩がはアプローチが1時間とかかるため荷物の岩場の残置が大量に行われる。
当たり前のように岩にヌンチャク(クイックドロー)が残置される。
そして
2000年6月15日
キャンプ場の水源確保の名目のもと【立入禁止】の看板が立つ。
鳳来の借家(クライマー20数名で借りた家)のメンバーが地元地域、森林組合、行政(当時は鳳来町)に話を聞きに行く。
「岩場の荷物や岩にかけてあるヤツ(クイックドロー)は俺らにしたら不法投棄のゴミと同じだ。」と言われる。
地元の方々の話を聞き、全面禁止の危険を感じる。
清掃活動をはじめ、岩場にあった残置荷物を降ろす。
岩に残されたヌンチャクも回収した。
勝手に回収されたクライマーから苦情が多数あった。
「誰が勝手に岩に穴をあけてあんなもの(ハンガー)を付けて良いって言った。」と言われた。
外すわけにはいかないので岩と同じ色で着色した。
「ハンガーが見難い」と苦情があったが、登れる環境を維持することが優先とその作業を継続した。
事故が起こってはいけないとリボルトの作業や終了点の整備作業をした。
「鳳来の問題は鳳来で登りたい上級者の人たちがやっているだけ。」という声が聞こえた。
近くの中級者のエリアである石巻山(現在登攀禁止)の整備を日本フリークライミング協会の協力を得て実施した。
どうすれば鳳来の岩場を継続的に利用できるのか?
どうすれば禁止となったエリアを登れるようにできるのか?
アクセス問題の初期に活動した皆は半年以上にわたり、
休みの大半を登らずに岩場整備や地元へのあいさつ、清掃活動に費やした。
清掃活動を地元地域との共催とし、鳳来町後援の冠を付け少しずつ活動を進歩させていきましたが、
仕事や家庭の都合、モチベーションの低下により活動は徐々に停滞していった。
(モチベーションの低下については一部の強権的な者の身勝手によるものが大きかったと私個人は思っている)
「クライマーの増加はエリア全体の禁止を招きかねない」と判断した鳳来ローカルたちは新しいエリアやルートを作っても発表を控えるようになった。
数年後、そんなローカルの配慮を軽視して記録の発表をする者が現れ、ローカルとの対立があった。
それから「鳳来は閉鎖的だ」とローカル以外のクライマーから言われるようになった。
どうすれば地元の方々がもっとクライミングを理解してくれるのか。
どうすれば禁止になったエリアを解放できるのか。
どうすれば新しいエリアやルートを堂々と発表できるようになるのか。
人が増えることが問題になるのではなく、地域活性化の材料になるハズだ。
それにはどうすればいいのか。
その後、地元小学校の岩登り体験会を地元経済界の応援を得て3年間にわたり実施した。
新聞やケーブルテレビにも掲載していただいた。
地元のスポーツイベントでクライミングの体験会を開催した。その1 その2 その3
認知度は少しは上がったと思う。
しかし、【鳳来の岩場】を登る地元住人は現れなかった。
地元住民が【鳳来の岩場】を活用するようにならなければ・・・。
そして
2011年10月 NPO法人新城DOSクライミングクラブ 設立総会開催
2012年2月 ボルダ109 オープン予定。
2000年6月15日 立入禁止の看板が建った日から12年が経っていた。
Posted by ボルダTO9 at 08:23│Comments(0)
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